原動力はベストを尽くす姿勢と挑戦心|失敗から起き上がる姿勢がキャリアを導く
ハワイ州観光局日本支局 局長 ミツエ・ヴァーレイさん
Mitsue Varley・石川県出身。金沢での商社勤務を経て1992年にハワイへ移住。観光牧場での仕事を振り出しにハワイの観光関連分野やPR企業で活躍。2012年からハワイ州観光局の仕事に従事し、日本支局のマーケティング本部長と局次長を経て2019年に支局長就任し現職
専業主婦志望から海外に飛び出すまで
私は石川県河北郡内灘町という小さな町の出身で、隣接する金沢市の短大を卒業し新卒入社したのも大手商社の金沢支店でした。将来はきっと結婚して専業主婦になるものなのだと考えていました。
つまり当時の地方ではごく普通だと思われていた人生を歩んでいたわけです。
そんな私がその後、国際結婚してハワイに移住し、州政府機関の日本支局長としてハワイと日本の両方に関わる仕事をし、太平洋を行ったり来たりする生活を送ることになるとは、その頃は想像もしていませんでした。
特別なスキルも後ろ盾も持たない自分が、想像すらできなかったような人生を海外で歩んでこられた原動力は「好きな英語を生かした仕事がしたい」という漠然とした想いと、何事にも関心を持ち知りたくなる興味心、そして出会えた仕事に全力で向き合うパッションの3つだったように思います。
やり手揃いの職場で学んだビジネスの基礎
英語が好きになったのは、繊維製品の輸出業を営み海外出張も多かった父親の影響です。仕事を通じて英語の重要性を感じていた父の方針で、小学校3年生から英語塾に通いました。
しかし我が家では、私の下に妹そして弟(長男)がいましたので、地元を離れて4年制大学へ進学する選択肢はなく、金沢の短大の英語学科へ進学することにしました。
短大時代に米国へ1カ月間の短期留学をしましたが、その時が海外初体験という世間知らずでしたし、英語力も留学先で自分の英語が通じないことにショックを受けてしまうレベルでした。
卒業後は英語を生かせる仕事のキャビンアテンダントや旅行会社、通訳などの仕事に就きたいと漠然とした夢を描いていましたが、やはり地元を離れることができず大手商社、丸紅の金沢支店に就職。しかしこの選択は自分の将来にとって大きなプラスとなりました。
周りはバリバリ働く先輩社員や、本社から派遣されてきたハングリー精神に溢れた社員ばかり。そんな職場環境のもとで仕事に必要な自己管理能力や規律、ビジネスのキーポイントをみっちり叩き込まれ、社会人としての基礎を身に付けられました。
私は女友達のみならず男友達も多かったこともあり、キャリアの中でとくにジェンダーを意識したことはずっとありませんでした。どんな仕事も全力を尽くすぞという思いでこなしていました。
むしろ日本の商社でそうした仕事を経験できたことは財産だと感じています。日本とアメリカを行ったり来たりして、両方の国の関係者と仕事をする現在、商社時代に学んだことが大いに役立っているからです。
日本での仕事経験がなく、いきなりアメリカで仕事を始めていたら、日本のビジネス慣習を体感する機会もなく、おそらく現在のキャリアはなかったと思います。
また溌溂と仕事に励む周りの人たちに刺激され、私も英語力の向上を目指したくなり仕事の後に英語学校に通うようになりました。
そこは単なる英語学校というだけでなく、金沢に欧米各国から来ていた外国人が集まるコミュニケーションスペースにもなっていました。ここで知り合ったのが、ハワイの大学と北陸大学の教員交換制度で来日していた現在の夫です。
商社に入社してから4年ほどたった頃にアメリカ人の夫と婚約しハワイへ移住することになりました。
1992年に移住した当初は現地の大学で改めて英語を学ぶことも考えましたが、時間を持て余しそうだったのでとりあえず仕事をしてみることにしました。ここからが第2の人生の始まりです。
ハワイで海外キャリアをスタート
海外で仕事をすることは想定してきませんでしたが、やる以上は納得できる仕事に就きたいと考え、自分でいくつかの条件を決めました。
まず米国企業であること、人と対面したり動き回ったりするアクティブな仕事であること、職場に日本人が少ないこと、そして仕事場が当時日本人で溢れかえっていたワイキキ以外であることを優先。
その条件で新聞広告から見つけたのが観光牧場のクアロア・ランチで観光客を案内するアクティビティ・コーディネーターの仕事でした。
ホテルや旅行会社で日本人を接遇する仕事の方が給料も良かったはずですが、いま考えてもクアロア・ランチを選んだのは大正解。
国際的な環境でビジネスするための基礎の多くをここで学べました。日本では一定の常識に基づくコミュニケーションが当たり前でしたが、ここはさまざまな人種が働く別世界。
白人もハワイアンもポリネシアンもアジア系も、色々な文化的背景を持つ人々が集う職場で、共通の常識に頼らずにコミュニケーションを図り、相手の意図を考え、いかに自分の意見をフェアに主張するか。グローバルな能力を鍛えるには最高の場でした。
また毎日何十台ものバスをコントロールし、予期せぬアクシデントに対処し、報告書をまとめ、イベント開催時にはコーディネーター役も務める忙しい日々の中で、咄嗟の判断力やチームワークを高める力が鍛えられました。
結局、現場のアクティビティ・コーディネーターからスーパーバイザーに昇格し、その後も営業マネージャー、営業部長、国際マーケティング部長を経て、中国、韓国、台湾、日本などの海外出張含め本当に多くの経験をさせてもらいました。
クアロア・ランチで約8年間を過ごし、やるべきことは全部やったと思えるようになった頃、PR会社から誘われたこともあって、観光産業とは違う刺激を求めて広告・PR業界に移りました。
その後、オアフ観光局やハワイコンベンションセンターを経て、2012年からはハワイ州観光局で仕事をしています。
PR会社からオアフ観光局へ移ったのは、新たにアジア担当のマネージャー職を新設するからやらないかと誘われたのがきっかけでした。
地域全体のマネジメントに関わる立場の仕事には興味があったので誘いを受け、2000年にセールス&マーケティング・マネージャーに就任しました。
オアフ観光局では予算組みを含めて大きな権限を与えられ、観光局活動に係る旅行会社、ホテル、航空会社など観光産業のさまざまな事業者、地元の行政機関、州政府の行政機関など多くのステークホルダーと上手に付き合っていくノウハウを学びました。
そして何より公の場で多くの人々を前にプレゼンテーションをする機会が増え、英語力が向上した実感があります。
ハワイに渡ってから、その時々の考えや事情に従ってキャリアを重ねてきましたが、結果的にデスティネーション・マーケティングという一本の軸に沿った歩みだったと、振り返ってそう思います。
積み重ねたキャリアがすべて現在のデスティネーション・マーケティングの仕事に結びついています。
観光牧場で観光客対応の現場や運営の実態を理解し、広告業界でプロモーションに不可欠な広告・PRを学び、島の観光局でデスティネーション・マーケティングの入門体験をし、それまでのキャリアで培った学びを全部生かす形で、現在、州全体のデスティネーション・マーケテイングに携わっているわけです。
キャリアは結果的についてくるもの
最近は若者向けの講演を依頼されることも多く、キャリア観を尋ねられることも多いのですが、私自身はキャリア形成と言う言葉すら知らずに育った世代です。
そんな私がキャリア形成について言えるのは、キャリアはあくまで頑張った結果でしかないということです。
実際に私の場合、日本とハワイでの最初の仕事だけは自分から探しましたが、その後のキャリアは全部、それまでの実績と働きぶりを見ていてくれた周りがチャンスを与え誘ってくれたものです。それに、キャリア形成は自分の思い通りにはならないもの。
途中で失敗しても気にしないことです。失敗して落ち込むのではなく、そこでもう一度起き上がってパワーを出して全力で前に進む。その姿勢こそがキャリアを引き上げてくれるはずです。
自分のキャリアの原点、軸となるものが見つかれば、それを大切にすべきです。私の場合の軸は英語でした。最初は英語を生かせる旅行会社や通訳の仕事、キャビンアテンダントを望みました。
その後、過程はいろいろありましたが結果的に旅行会社や航空会社と密接に協力して仕事をしてきましたし、観光局や観光産業のVIPに同行する仕事も多いため私が通訳を任される場面も少なくありません。
私の中で英語の軸がブレなかったから夢はほぼ叶っています。キャビンアテンダントの夢だけは叶いませんでしたけれど。
キャリアのスタート地点から専門分野を決めつけてしまう必要もありません。決めつけるよりも柔軟に、仕事の履歴を重ねる中で領域を広げていけば良い。私も英語、観光、デスティネーションマーケティングという順番で徐々に自分の領域を広げてきました。
最初からキャリア形成を急ぐ必要がないことは、アメリカ社会で仕事をしていて実感しています。そもそもアメリカでは年齢は仕事に一切関係なし。履歴書にも年齢記入欄はありません。
「何歳までにどういうキャリアを積んで、何歳までにこうなろう」という目標設定をするよりも、その時々にどれだけチャレンジングな仕事に取り組んでいるかの方がよほど大切です。チャレンジして成長を意識しなければ、その先の成長もありません。
目の前の仕事にベストを尽くせ
日本とアメリカでの仕事の経験から気付いた、世界中で通用する人材の条件は、常に前向きにパッションを持って仕事に取り組み、あらゆる物事に対して興味を覚えるフレッシュな気持ちを持ち続けること、常にベストを尽くすこと、それだけ。ですが言うのは簡単でも実行するのは難しい事ばかりでもあります。
また、人を惹きつける自分オーラを出せるようになることも重要です。そのためにはまず自分を好きになること。いつも自分の表情に気を配りスマイルを心掛けること。そして仕事の際、たとえば大切なミーティングがあるときには体にエネルギーを集中させるよう意識しています。
この3つを忘れず頑張っていればチャンスは向こうからやって来ます。その時に勇気をもって決断してチャンスをつかむ。私自身はそれを繰り返すことでステップアップしてきました。
常に好奇心のアンテナを張っておく
講演などの機会に日本の若者と接することがありますが、将来展望が定まらずスキルもなく、自分が何をしたいかも見極められなかった自分の短大時代と同じだと感じます。
そこから自分が何を武器にキャリアを築いていったか。振り返ると唯一、自分には物事に興味を持つ才能だけはあったと思います。
商社時代、毎日ひたすらデータを打ち込む仕事をしている人は仕事についてどう考えているのか、面白いと感じているのか、何を考えて日々仕事に取り組んでいるのか、どうしても知りたくなり直接尋ねたことがあります。
普通はそんなことに興味を持ったり、ましてや当人に直接聞いてみたりする物好きはいないと思います。とにかく知りたい、わかりたい、尋ねてみたいという気持ちはいまでも人一倍強く持っています。
また自分が尊敬する人を観察してスキルを盗むということを意識することも大切だと思います。
興味を持つ心を失わないためには、常に自分の周りに好奇心のアンテナを張り、世の中の動きに対して敏感でいることです。そのアンテナに引っかかってくる事柄があれば、それをより詳しく知るために、調べることと人に聞くことを厭わないことです。
分からないことを尋ねるのは恥ではなく、どんどん誰かに聞くべきです。その意味では自分の問いに応えてくれる人物、それも目標にできるような人物を、その時々にメンターとして持つことを若者には勧めたいですね。
私にとってのメンターは商社時代の先輩であり、クアロア・ランチのカウボーイたちであり、オアフ観光局の上司でした。こうした人々に導いてもらったからこそ、今の私があるのです。
これまでの人生を振り返ってみて、自分の好きなことや興味のあることを仕事にできたことは本当に幸せだと常に感じています。みなさんも好奇心のアンテナを常に張ることを意識して、自分の好きなことを仕事にすることを目指してみるのはいかがでしょうか。
取材・執筆:高岸洋行