継続は凡人の最大の力なり|選ばれない立場を経験して思い知った「就職」の意義
トレードログ 代表取締役 藤田 誠広さん
Masahiro Fujita・川越市出身。2001年に上智大学法学部を卒業後、バックパッカー、ニート、非正規労働者等として過ごす。この間、起業失敗も経験。2005年にCM総合研究所に入所、2011年にビデオリサーチに転職し、マーケティングデータ業界で15年間の経験を積む。大手製造業やデジタル系事業の開発を経験後、2018年にトレードログを創業し、以降現職
やりたいことがない人ほど就活すべし! 後悔から伝えたいメッセージ
「サラリーマン以外の仕事」これは中学生の頃に「将来の夢」という課題を課された際に特に思い浮かばず渋々書いたものです。成績だけは良かったので、周囲からは「そんな曖昧なことを書くと内申点に響くよ」と釘を刺されたことも覚えていますね。バブル崩壊後の世間は「この世の終わり」のような雰囲気があり、楽しそうに見えなかったので、そう思うようになったのかもしれません。
サラリーマンとして働きたくないものの特に強くやりたいこともない気持ちはその後もあまり変わらず、就職活動はしない選択をしました。これがキャリアにおける最初のターニングポイントです。
卒業後は世の中のことを知ろうと考え、いろいろなことをして過ごしました。バックパッカーとして海外に出ていた時期もありましたし、ニートだったこともあります。当時はニートという言葉はまだなかったですが。「日本のオルタナティブロックバンドをロンドンで広めよう」と知人と音楽と映像のレーベルを作り、起業の真似事をしたこともありました。
しかしお金を稼ぐために背に腹は代えられず、24歳からの2年間は、非正規労働者(派遣社員)として家電量販店で働きました。その後の進路を考えるきっかけとなったのは、同い年の店長代理に「お前の代わりはいくらでもいる」と何度も放言されたこと。事実なので悔しかったですが、「せめて1年や2年続けられる根性がないと、こういう奴に一生こういうことを言われ続けるのだな」と感じました。いろいろなことに手を出した結果、当時の自分には独立して何かできる才覚がないことを痛感していたので、こういうことを言われないためにはどうしたら良いかと考えて、まずは普通に就職したほうが良いのだろうと遅まきながら気づきました。
また、この頃は高校や大学の友人達から同窓会の誘いが来たり、同級生の結婚式にも出席したりしていたのですが、顔を合わせるたびに社会でバリバリ活躍している仲間たちとの彼我の差を感じて自信がなくなり、そのうち「恥ずかしくて顔を出したくないな」と萎縮するようになっていました。
そして27歳の折、人生で初めてまともな就職活動をしました。しかし当然ながら正社員として雇ってくれる企業はなく「人生失敗したな」と何度も後悔しました。
今になって思えば、バックパッカーも起業の真似事も、大学時代にやっておけば良かったわけです。
大学生の頃は、大学に今ひとつなじめず、難解な本に耽溺したりバイトばかりして過ごしていました。地球環境法学科という新しい学科の一期生になる道を選んだのですが、環境ビジネスのトレンドが来るのはまだまだ先のことでしたし、自分に合わないカラーの大学を選んでしまったことには後悔が残っています。他の大学へ行った友人達からは「お前みたいな時代遅れな奴こそ、うちの大学に来れば良かったのに! (笑)」なんてよく揶揄われていましたし、「せっかく受かった慶應を選んでいれば、もうちょっと充実した大学生活になったのではないか」なんてことも頭をよぎりました。とにかく人生で最もパッとしない4年間を過ごしましたね。
今は採用市場の状況もだいぶ変わってきているそうですが、キャリアというのは一度道を外れるとなかなか本筋に戻ることが難しいです。特に強みや継続力がない人であればなおさらです。今の私が大学時代の自分に会ったら「やりたい事が特にないなら、どこでも良いから就職しろ」と強く諭すと思います。
もちろん「サラリーマンになる」以外にやりたいことが見つかっている人は就職活動をしなくても良いと思いますが、やりたいことが明確になっていない人には「とりあえず就職して働きながらやりたいことを探したほうが良いよ」と伝えたいですね。20代前半を棒に振った私の心からの後悔と反省を込めたメッセージです。
友人の紹介とバックパッカー経験に身を助けられた1社目の内定
27歳のときの就職活動は、意外なところから道が開けました。同級生の結婚式で会った友人が気にかけてくれ、「小さな企業だけどインテリジェンスが必要な仕事をやっているし、変わり者で理屈っぽい社長がいるから藤田に合うかもしれない」と、CM総合研究所という企業を紹介してくれたのです。そこはテレビCMに関するデータ収集・研究分析やコンサルティングをしている企業でした。
広告調査やデータビジネスに特別な興味があったわけではありません。ただ当時は「お金もない、うだつの上がらない状態からどうやって抜け出せば良いか」ということしか考えておらず、半ば神頼みのような気持ちで面接に行きました。
友人の読みどおり、社長の関根建男さんとは気が合い話も盛り上がりました。確かに変わり者でしたが、「自分以外にシベリア鉄道に乗ったことがある人に久々に会ったよ。この話ができる人はなかなかいなくてね」と仰っていただき、もしかしたらそれが採用の決め手だったのかもしれません。バックパッカー時代の体験談もあったお陰で、なんとか就職ができたこの出来事がキャリアにおける2つ目のターニングポイントです。
同級生から遅れること5年半、入社後はとにかく実績を作らなければと考え毎日23時くらいまで必死で働きました。学歴などはすでに通用しない年齢になっていましたし、まともなキャリアも資格も家柄もないし、そもそも自分にはもう残された選択肢はないのだから、たとえ小さい会社でもとにかく数年は続けようと、そんな思いでしたね。
3年ほど経った頃、一度転職活動をして内定をもらったのですが、「関根社長に拾ってもらった恩をまだ返せていないな」となんとなく思い踏み止まりました。
とはいえ、「かっこつけて残ったけど、さっさと辞めれば良かったかな」と少し後ろ髪も引かれていました。当時、自分は会社の端っこで地方企業の新規開拓に携わっており、関根社長が「うちのコンテンツはローカルの地上波でも通用するはずだ」と何気なく仰っていたことがありました。「端っこの業務で恩返しするならこれだろう」と感じて「ローカル局の開拓」というミッションを勝手に打ち立て、頑張って働きました。結果として商品力の向上に成功し、その事業は今も続いているようです。拾ってくれた関根社長にも喜んでいただき、顔を少しは立てられたかなと思えたことから、計6年弱勤めたCM総研を退職しました。
サラリーマンから起業したことで変化した「悩みの種」
当時33歳でしたが少し自信もついてきたので「さすがにもうデータビジネスは良いだろう」と感じていたのと東日本大震災があったこともあり、次も決めずに辞めてしまいました。転職活動では別の業界に行きたいと考え何十社も受けてみたのですが、これが驚くほどうまくいきませんでした。データビジネス業界という狭い業界でしか働いた実績しかなかったうえに年齢で引っかかってしまい、なかなか良い返事をもらうことができなかったのです。
自分なりに5年の遅れを少しは取り戻せたと考えていましたが、同世代の33歳にはまったく追いつけていなかったこと、業界を離れると中途半端な実績はほとんど売りにならないことを嫌というほど思い知らされました。所詮は井の中の蛙だったんですね。このことからも、やりたいことがない人ほど20代での実績が重要になると学びました。
無職期間も思いのほか長くなってしまったので、再びデータビジネスの業界に戻らざるを得なくなりました。次に入社したビデオリサーチは、テレビ視聴率などのメディアデータ、マーケティングデータを提供する企業でした。私は製造業や小売業を中心に大手広告主企業を何社か担当しましたが、テレビCM以外のマーケティング施策についてもデータを扱う機会が増えました。
多くの場合、テレビCMにその企業のマーケティング施策の良し悪しが凝縮されて表現されがちなのですが、部署間の連携が取れず「これは何のためにやっているのだろうか?」と疑問に感じるマーケティング施策をすぐ側からいくつか見て、データビジネスへの関心が徐々に復活してきました。
当時はスマートフォンやSNSが普及し始めてきていたものの、部署間の連携がうまく取れていなかったり、生産や販売の現場の様子や生活者の顔が見えていなかったりで、何となくチグハグなケースが多かったように感じました。世間的にもテレビの地位が相対的に弱くなってきたなかで「従来のマーケティング手法が徐々に形骸化し始めているのではないか」と感じるようになっていきました。
そんな課題感を抱えていた頃、有名コピーライターの小霜和也さんとの出会いがありました。これがキャリアにおける3つ目のターニングポイントです。小霜さんは意味や効果のあるライティングとそうでないライティングの違いを追求していた方で、本当にいろいろなことを教えていただきました。「自分とは違う職種で似たような課題意識を持っている人がいる!」 と非常に大きな刺激を受けました。
その後に独立を決めたのは、新設されたデジタルビジネス推進部に異動したことがきっかけです。関根社長や小霜さんのようにいつかは自分で独立してやってみたいと漠然とは考えてはいたのですが、仕事で新規技術を調査するなかでブロックチェーン技術と出会い、「これだ」と感じました。無気力な中学時代から数えて四半世紀越しです(笑)
大手企業のマーケティングコミュニケーションに感じていた課題もありましたし、「世の中のマーケティングコミュニケーション自体を変えていくのはおもしろそうだな」と事業の方向性を決め、2018年、ブロックチェーン導入とデータ活用支援を両輪とする当社トレードログを創業しました。
学生時代やサラリーマン時代は「自分らしく働きたい」「自分のキャリアがどう」などといったことに悩むことが多かったですが、そうした自己実現欲求で悩めたのは、安全欲求が満たされていたからであることに後から気づきました。学生やサラリーマンの悩みって、実はものすごく贅沢で高尚な悩みなんですよね。社長業は常に生き残りの危機が迫っているので、「自分らしさ」や「キラキラしたキャリア」を考えている余裕がありません。
「マズローの欲求5段階説」でいうと、サラリーマン時代は低次の欲求が満たされていたので高次の欲求にフォーカスできていたものの、起業後は低次の欲求にフォーカスせざるをえないからかもしれません。起業家とか社長はサラリーマンに比べて「動物」に近いということですね(笑)
世の中には、「自分らしく」「同級生や同僚に負けないように」と迷い悩んでいるサラリーマンがたくさんいる印象がありますが、そういう人に会うといつも「起業してみたら良いよ」と助言します。「サラリーマン時代の自分は、贅沢で高尚な悩みを抱えていたんだな」ときっと心の底から実感できるはずです(笑)。
消費者に甘んじない。サービスの出し手になることが社会で活躍する鉄則
お陰様で創業7年目を迎え、大手各社からも引き合いをいただいていますが、まずは会社の皆が安心して働けるような、安定したビジネスを確立させることが当面の目標です。
ただ40代中盤になって変わったのは、大学の講義やセミナーなど、後の世代にメッセージを伝える活動に声をかけてもらった際に、ご協力させていただくようになったことです。若い方にメッセージを伝えることも少しは重要だと考えるようになったからかもしれません。
昔の自分に似た若い人に会うと「自分もこういう生意気なことを言っていたんだな……」と気づかされます。そういう人にうっかり口が滑って助言してしまうことがありますが、聞く耳を持ってもらうことはほぼないですね(笑)。当時の自分にも耳が痛い有益な助言をしてくれていた年上の人たちはいたはずですが、私は全く耳を貸しませんでした。だから痛い目にたくさん遭ってきたのだと今はわかります。
20数年前の自分のような若者に一番伝えたいことは、「他人の思いにもう少しだけ敏感になったほうが良いかもね」ということです。若い頃は「自分の能力だけでうまくいっている」と思いこみがちですが、そういう人は周囲からの助けや協力を得られず、どこかでつまずきがちです。
ソニー・ミュージックの代表・村松俊亮さんの言葉に「愛、命、運、縁、恩という『人生のあいうえお』を大切に」というものがあります。昔はピンときませんでしたが、今はこの言葉に思い当たる場面が多々あります。特にビジネスにおいては、後ろの2つ(縁、恩)を大事にできる人が、成功を収めていると感じますね。
古い考えだと笑われるかもしれませんが、周りを見ているとこうした言葉に素直に耳を貸せる人のほうが、キャリアが順調に積み上がっている気がします。「目の前の縁や恩に感謝して、見るもの聞くものを素直に受け止められる人」は、社会で長く活躍できる人材に共通した特徴かもしれません。逆に、昔の自分がなぜうだつが上がらなかったのかを考えると、この縁や恩を大切にできなかったからでしょう。
ただ間違えてはいけないのは「言われたことをただやる=素直」ではない、ということです。ありのままの出来事を歪めずにそのまま受け止めてみたうえで、「本当にそうなのかな?」と自分の頭で考えていくところまでがセットです。そういう人は、周りの知恵や協力を得て、新しいものを生み出していけるのではないでしょうか。
そのためには、「わからない」「できない」「知らない」「聞いてない」「認めてもらえない」といった言葉からもう一歩先に踏み込んで考えることをお勧めします。「〜ない」で終わってしまう人は、どんな企業でも評価はされにくいです。
この「〜ない」を少しでも減らすには、「消費者に甘んじる時間を意識的に短くする」のが良いかもしれません。今はゲームやSNSなど快楽を与えてくれるサービスがたくさんありますが、消費者の立場にばかり甘んじていると、人としての知性や耐性が劣化し、結果「〜ない」の多い人になってしまいます。
社会で活躍するということは、言うなれば「生産者側に行く、サービスの出し手になる」ということなので、学生のうちから“消費者でいる時間”を少し減らし、行動や感動を伴う体験に時間を使ったほうが、将来につながっていくと考えられます。今思い出すとうだつが上がらなかった頃の自分は本当に「〜ない」で終わっていることが多く、消費者に甘んじていました。これからを生きる若い人は、昔の自分のようにならない方が良いんじゃないですかね(笑)。
選択肢の数は人それぞれ。キャリアの助言は「誰が言ったか」にも注目して
成り行きで過ごして、そもそも「ファーストキャリア」を意識して作ったことがない私からすると、ファーストキャリアを自覚的に築こうという、私より上のレベルの人にアドバイスできることはほぼないです(笑)、強いて申し上げるとその方の立場によって違いますかね。
まず、複数社から内定をもらった選べる立場にいる人は「どの1社を選ぶか」で迷いますよね。複数の選択肢を持てた人は「10年後にこうなっていたいと思える先輩がいるか」「飲み会の頻度や飲み方が自分に合っているか」の2点を見てみるのがおすすめです。憧れを抱けるような先輩がいれば理想ですし、少なくとも「将来こういう社会人にはなっていたくはない」と思う社員がいるような企業には入らないほうがベターです。
また、飲み会の頻度や飲み方からは「社内コミュニケーションはどれくらいが適切だと考えているか」というその企業なりのカルチャーが見えてきます。多ければ良い、少なければ良いというのではなく、「そのくらいのバランスが自分に合っているか」を確認してみてください。カルチャーが合う企業のほうが、入社後も活躍できる可能性が高まります。ニートだったくせに偉そうなこと言ってすみません(笑)
他方で、「内定がもらえない」と迷い悩んでいる人もいると思います。私もこの辛酸を舐めているので気持ちは痛いほどわかりますが、こういう人には「とにかく何十社でも就活をして、縁のあるところを見つけて、とりあえず入ってみて何年か頑張ってみよう」と伝えたいです。まずはどこかに入り、入ったところで実績を作れば、選択肢をほんの少しは増やせるようになります。
企業選びにおいては「成果主義」を謳っている企業は、注意して中身をよく見たほうが良いかもしれませんね。
あくまで個人的な見立てですが、「結果さえ出せば良い」という企業ほど不祥事や体を壊してしまう人が多い気がします。私が20代の頃にはITベンチャーが雨後の筍のように乱立していましたが、急成長してパッと弾けてなくなってしまう企業にはこうした結果至上主義の会社が多かったように記憶しています。
成果主義というのは、ともすればお客様・取引先や仲間のメンツを大事にしないスタンスにもつながります。少なくとも私は、そういうものを大事にしない人や企業とは一緒に仕事がしたいとは思いません。ビジネスでは「相手のメンツを潰さない」ことも大事で、ときには「誰かのメンツを潰してしまうならやらない」という決断も必要だと考えています。
もちろん、「頑張っていれば、結果が出なくても良いよ」という甘い考えの企業にも未来はありません。一番良いのは「成果にいたるまでが正しいプロセスだったか」「再現性のある仕事の仕方をしていたか」をちゃんと見て評価してくれる企業です。再現性がある仕事の仕方をしていれば、仮に失敗をしても次の成功につなげることができます。
最後に、キャリアのアドバイスを聞くときには「誰が言っているか」にも注目してみてください。優秀で、ずっと選べる立場で生きてきた方々から「今の企業に合わなければ、さっさと辞めて次の企業へ行ったら良い」と助言されることもあるでしょう。しかし彼らのように豊富な選択肢を持てない人にとっては、そうした拙速な判断によりむしろ自分のキャリアを傷つけてしまう場合もあり得ます。
実際、凡人が壁を乗り越えようと考えるならまずは「続ける」しか選択肢はありません。長く続けていれば、そのこと自体に価値が生じてきます。いろいろなキャリア論がありますが、実はその多くが優秀な方や苛烈な努力ができる方向けのものであることには注意が必要です。選択肢が少ない凡人にとっては「仕事をちゃんと続けている」というだけでも、十分に立派なことだと私は考えています。
取材・執筆:外山ゆひら