心の衝動に従って見出した「人生をかけたい」と思えるキャリア|予測不能な未来を楽しもう

OWB 代表取締役 和田 智行さん

OWB 代表取締役 和田 智行さん

Tomoyuki Wada・中央大学経済学部を卒業後、ITベンチャー企業に就職。2005年、28歳のタイミングでITベンチャー企業を共同創業し、同時に地元である南相馬市小高区(旧小高町)にUターンしてリモートワークを開始。東日本大震災で避難生活を送りながら、2014年5月に避難区域初のシェアオフィス「小高ワーカーズベース」を開設し、以降現職。現在までに数々の事業を立ち上げている。2017年以降は起業人材の誘致・育成、創業支援にも注力し、2019年3月には小高ワーカーズベース(現・OWB)の事業として、簡易宿所付コワーキングスペース「小高パイオニアヴィレッジ」を設立。一般社団法人パイオニズム代表理事、アトリエiriser代表も務める

この記事をシェアする

制限があるなかで試行錯誤した就職活動。IT業界に注目した理由

織物業を営む家で長男として育ったこともあり、物心付いた頃にはキャリアの道筋が敷かれていました。父に「お前が家を継ぐんだぞ」と繰り返し言い聞かされて育ったので(笑)、当たり前のように家業を継ごうと思っていて、それについて疑問を抱くこともなかったのです

将来のために視野や人脈を広げておこう、という前提で高校卒業後は上京し、東京の大学に進学。オーケストラの部活に入り海外演奏旅行などにも出かけましたが、在学中に将来設計が変わることはなく、就職活動でも将来的に実家を継ぐにあたって必要な経験を得られそうな企業という軸で取り組みました。20代のうちに福島に戻ろうということも漠然と決めていましたね。

就活の序盤は、家業と縁の深い繊維業界やアパレル業界の大手を受けていましたが、当時は就職氷河期真っ只中。従業員数2万人規模の企業ですら1〜2名しか採用しないような状況で、最終面接に進めてもなかなか内定に至らないことが続き、「この不況下で希望の企業に入るのは難しいかもしれない」と心が折れかけてしまいました。

そんな私を見かねたのか、父は突然「うちを継がなくて良いぞ」と言い出したのです。「ただし、地元には帰って来い」と。仕事がない状態で実家に帰るとなれば、地元で仕事を見つけなければなりません。むしろ最初の条件よりもハードルが上がった気がしましたが(笑)、地元で考えられる就職先には興味が湧かなかったので、「こうなったら自分で起業するしかない」と思い立ちました。決められた枠組みのなかで消去法で決めた道ではありますが、ここがキャリアにおける最初のターニングポイントです。

和田さんのキャリアにおけるターニングポイント

自分で起業できそうな業界として注目したのが、IT業界です。当時はWindows98が発売になったくらいのタイミングで、ITバブルがこれから来ると言われていた時期です。不景気のなかでも唯一と言って良いほど伸びている業界で、求人もバンバン出ていました。「ITスキルを身に付けてから起業すれば、田舎でも食えるかも」というざっくりとした道筋を立て、ITベンチャー企業を探してみることにしました

とはいえPCをほとんど触ったことがない人間だったので、ゆっくり丁寧に育成してくれる企業よりも、最前線に放り込まれて無理矢理にでも実力を伸ばさせてもらえそうなベンチャー企業が良いだろうと考え、未経験歓迎で募集を出しているITベンチャー企業数社に応募し、1社目への入社を決めました。

企業を選ぶ基準は「こうなりたい」と思える社員がいるかどうか

1社目に選んだのは、従業員数50名くらいの規模感で、受託開発を手がけるSIer(エスアイアー/システムインテグレーター)の企業でした。いろいろな国の人が働いていて刺激をもらえそうだったことや、駅の自動改札のシステムなどハードウェアが絡むものも手掛けていて、エンジニアとして幅広い経験を積めそうなところに魅力を感じました。

IT業界は今でこそホワイトなイメージになりましたが、当時はハードワークが当たり前の時代でした。上司のあたりも厳しく、新人時代はかなりしんどかったです。それでも頑張れたのは「起業する」という目的を持てていたからこそ。実力が足りていない自覚は大いにあったので、とにかくスキルを磨かなければと必死で勉強しました。

2年目になるとプログラミング技術がひと通り身に付き、仕事のおもしろさがわかるように。プロジェクトを次々と任せてもらえるようになり、3年目は自分のチームを持てるくらいには成長できました。期待していた成長ができたという点で、ファーストキャリアとして良い企業を選べたと思っています。

早々にマネジメント側を任せてもらえたのはうれしかったのですが、上流工程ではお客様への要件定義が中心になり、チームメンバーをいかに動かすかという立場での仕事になります。起業を見すえたときに、もう少し自分の手を動かしてエンジニアとしての技術を磨いておきたいと思ったことから2社目への転職を決めました。

1社目は入社後の3年間で150名規模の企業に成長し、役割分担が進んでいたという背景もあります。そこで今度はもっと小さい規模で、プロジェクトの上流から下流まで全部一人でやらせてもらえるような企業に行こうと考え、20名規模の小さな企業に再就職。そこで2年ほど経験を積みました。将来の起業を目指している人が複数いて、その後一緒に企業を立ち上げることになる先輩との出会いも含め、良い環境に身を置けたと感じています。

どこに身を置くかによってキャリアは大きく左右されますし、自分がどうなりたいかで学ぶべきことも変わってきます。だからこそ、企業選びでは「自分も将来こうなりたい」と思える人が一人でも多くいる企業を選ぶのがベストだと思いますね。

「将来こうなりたい」と思えるロールモデルがいる会社を探そう

2社目での経験を経て「ある程度どんな案件でも一人でやっていけそうだ」という自信を持てるようになり、退社を決めました。ここがキャリアにおける2つ目のターニングポイントです。

その後1年間はフリーランスとして東京で活動したのち、2社目で知り合った先輩と「福島からのリモートワークでもOK」という条件で一緒に企業を立ち上げることにしました。

「働き方」は希望のライフスタイルから逆算して考える

企業を立ち上げる決断をしたのは今から20年前の話なので、リモートワークはまだ一般の企業に浸透してはいませんでした。ただ、フリーランスの頃は同業者も自宅で当たり前に作業していましたし、先進的なことをやっている感覚はなかったですね。

今のように映像でオンラインミーティングができるほどの通信容量もなかったので、月1〜2回は東京に打ち合わせに来ていましたが、最初の就職活動の頃から考えていた「30歳までに地元に帰る」という希望のライフスタイルをかなえることができました

就職活動の時期に「インターネット関連で起業しよう」と決めてからは迷うことなくキャリアを進めてきたので、これから社会に出る学生の人にも、一旦決めてみることの意義を伝えたいです。人生は長いですし、学生時代に決めたことが一生を左右するわけではありません。「一旦これでやってみよう」くらいの感覚で、一つの方向性を決めてみると良いと思います。

また、ファーストキャリアを決めるときに「どんな仕事をしたいか」から考える人もいるかもしれませんが、それが定まらないならば、まずは「どんな生き方や暮らしをしたいのか」という抽象的なイメージをして、そこから具体的な手段を考えていくのがおすすめです

「とにかくお金を稼ぎたい」「趣味と両立したい」といったざっくりした方向性で良いと思います。そうしたライフスタイルのイメージを決めておくと、それをかなえるためにはどうすれば良いのか、という自分にとって必要な情報をキャッチしやすくなります。

私の場合は「福島に住みながら仕事をする」というライフスタイルに合わせて起業という方向性を決め、そこに向かって逆算で経験やスキルを積み上げていくことができました。

ライフイメージから考えるキャリア設計

震災で痛感した「お金を介さない地域のコミュニティ」の大切さ

独立後は十分に稼ぐこともでき、思い描いた地元での生活ができていました。しかし30代半ば、大きなキャリアの転機を迎えます。

直接的なきっかけは東日本大震災ですが、その前から少しもやもやした感情を抱えていました。というのも、ITはテクノロジーとともにどんどん進化していく業界なので、チャンスに対する競争が激しく、一つの決断で勝ち負けが簡単にひっくり返ることもあります。自社で生み出したサービスや市場を後発の大手企業にごっそり持っていかれるなんてこともありました。そうしたことが何度かあり、「50〜60歳になってもこの仕事をやっていけるのだろうか」という漠然としたキャリアへの迷いが芽生え始めていたのです

そんな折に、東日本大震災が発生。私が住んでいる小高区は福島第一原発の事故の影響で全域避難となり、一時的に会津若松市で避難生活をすることになりました。私の企業は東京にあったので特に影響はなく、避難生活中でもリモートで仕事ができていて、お金も通常時と同じように稼げていました。

しかし発災直後においては、お金があっても食べ物もガソリンも手に入らない。それまでは「いかに大きく早く稼ぐか」ばかりを考えていて、お金さえあれば人生は安泰だと思っていたのですが、お金が役に立たないこともあるのだと気付かされたのです。

妻と二人の幼子を抱えてどう生活するか、というときに助けてくれたのが、父の友人や仕事仲間の方々でした。家族が築き上げてきた人脈のおかけで生き延びることができたと感謝する一方で、自分は家族が地元で築いてきた人脈と、彼らが持つ生きることに直結するスキルを持っていないという事実を突きつけられました。東京の企業に所属したまま福島でリモートワークしていたので、地元では最低限のお付き合いしかしてこなかったからです。

金銭が発生しなくても、サービスを与える側・受け取る側という関係性ではなくても、助け合いでつながり合える関係性があると知ったときに、今まで自分は何をやってきたんだろうと猛省しましたね。この時期に「お金を稼ぐことは大事にしつつも、お金を稼ぐことだけを目的にに人生を費やしていてはダメだ」という大きな価値観の変容が起こったのです。

使命感とともに「ゼロフロンティアのまちづくり」に俄然意欲が湧いた

OWB 代表取締役 和田 智行さん

その後もしばらくはITの仕事を続けていましたが、モチベーションがどんどん保てなくなっていきました。避難生活でコミュニティの重要性を考える一方で、仕事ではスマートフォンゲームの企画会議で「いかにガチャを回してもらうか」なんて話をしているわけです。言行不一致の感覚がどんどん大きくなり、2012年の年末、次に何をするかを決めないまま企業を辞めることにしました

その頃には避難指示が緩和され、日中は自宅のあるエリアにも出入りできるように。ボランティアの人たちや復興支援を検討している企業が訪れてくれるようになり、案内を頼まれて大型バスに同行してガイドのようなこともやっていましたね。

しかし避難解除の時期が正式に決まらないことには、復興が前に進まないのです。夜間人口は相変わらずゼロの状態で、支援を申し出てくれる県外の企業がいても、地元でパートナーとなってくれるプレイヤーがいないので話が進まない。宮城県や岩手県ではどんどん新しい動きが生まれているにもかかわらず、福島県の原発事故避難指示区域だけが停滞していると感じていました。

地元の人たちは「店も仕事もない町に帰還しても生活ができない」と考えていました。でも、その店や仕事をつくる事業者は「客も働き手もいない町で商売は再開できない」という考えです。言うなれば、鶏が先か卵が先か、という状態だったのです。

両親が工場を再開するために早々に帰還の意思を固めていたこともあり、私たち家族もいずれ帰還することだけは決めました。決めることで見えてきたのは自分の特異性です。家族とともに帰還を決めていて、起業経験のある30代は自分しかいないのではないか。であれば、暮らしと仕事を同時に創れるのは自分しかいないのではないか。そう気づいた瞬間に使命感が湧いてきました。ここがキャリアにおける3つ目のターニングポイントです。

使命感だけでなく、ある種のワクワク感もありました。なぜなら状況を俯瞰してみると、新しいまちづくりにゼロから取り組める機会なんて、人生で二度はない貴重なチャンスだと思えてきたからです。すでにある町や社会を変えるのはなかなか難しいものですが、ここはそもそも人がいなくなったゼロフロンティア。ここで新しい社会を作ってみたい。原発事故という教訓を活かしたよりよい未来への希望が芽生えたのです。

道を選ぶのは自分自身。周囲の声に左右されないキャリアを

そうして避難区域での事業創出に取り掛かります。しかし賛同してくれる人はほとんどおらず、10人に話せば10人が「こんなところで商売なんて成り立つわけがない」という反応でした。補助金も申請しましたが、そもそも避難指示区域内で創業することは想定されていなかったのもあってか、ことごとく落ちてしまいました。

結果どうなったかと言えば、人に理解してもらうことをあきらめました(笑)。自己資金でとりあえずやってみようと決めたのです

最初にコワーキングスペースを立ち上げて仕事をする環境を整え、次に食堂を始めました。夜間人口はゼロでも、日中はボランティアや除染作業、建物の工事作業にかかわる人たちが5〜6千人という規模で訪れている状況に着目し、温かい食事を摂れる場所が求められているのではと考えました。

一部の人からは「放射能汚染の町で誰が食事をするのか」といった声も挙がりましたが、私は自分の目で町の状況を見ていたので、うまくいく確信がありました。町に来ていたのは50代以上の男性が中心で、暑さ・寒さのなかで屋外でコンビニ弁当を食べながら作業をしているのです。地元のお母さんたちが作ってくれた温かい家庭料理はきっと必要とされるだろうと思いました。

そうしてこの読みはピタリと当たり、食堂は大繁盛。少ないながらも利益を上げられるようになると、ほかにも事業を再開する人たちが出てくるようになりました。複数の事業が再開されていくにしたがって、住民の気持ちも変化していきました。一時は帰還をあきらめていた人たちも「避難指示が解除されたら戻っても良いかも」と帰還を検討するようになったのです。

和田さんからのメッセージ

この経験を通じて感じたのは、自分に本気でかかわってくれるわけではない人たちの意見を聞きすぎる必要はないということです。人は無責任にあれこれ言ってくるものですが、「自分が一番このことについて考えているはずだ」と確信を持っていれば、周りの声に左右されなくなります。

観客席からヤジを飛ばされたとしても、グラウンドにいるサッカー選手は観客の意見を聞くことはないですよね。そのように「これは自分の試合なのだ。自分のキャリアでは自分がプレイヤーなのだ」という自覚を持てていれば、必要以上に周囲の声に惑わされることはないと思います。必ずしも多数派が正しいわけではないことも世の中にはままあるもの。自分を信じる気持ちを大切にすることは、人の意見に振り回されがちな就職活動においても良い方向に働くはずです。

人生をかけて成し遂げたいビジョンは「持続可能な地域づくり」

現在は「地域の100の課題から100のビジネスを創出する」をミッションに、地域の自立を目指して活動を続けています。地域の活性化や雇用創出のために企業誘致という手段をとる自治体も多いですが、それでは地域の課題解決を町の外の人に任せることになり、本当の意味で自立とは言えないのではないか、というのが私の考えです。

社会の状況は刻々と変わります。たとえば物価高や昨今の関税政策等、想定外の外部環境の変化により業績が悪化した場合、せっかく誘致した企業も自社の利益を守るために撤退してしまいます。誘致企業の撤退とともに地域とも共倒れになってしまっては、原発に依存していたときと何も変わりません。

これからは規模は小さくても、時代の変化に合わせて自分で生業を興す人がどんどんと生まれてくるような町であるべきだと考えました。この規模の町でもきちんとビジネスを回していけることを証明し、起業して生業にできる人が増えれば、それを見て自分も起業しようと思う若者も増えるはず。今後社会はどんどん変化しますが、そのたびに若者が新しい事業を興していくことが当たり前になれば、町は途絶えずに50年、100年、もっと言えば1000年先まで続くと信じています。

この11年で、約30の事業を形にできましたが、まだまだ道半ばです。福島第一原発の廃炉完了の目標が2051年と設定されており、それまでに100のビジネスを創出し、このビジョンを形にするのが私のキャリアビジョンです。その頃には私も70代になっているので、文字通り、人生をかけて取り組んでいくつもりです。

未来は予測不能。変化を前提に恐れずキャリアを進めよよう

学生のみなさんにぜひ目指してほしいのは「世の中の変化を待ってから行動する」のではなく「変化の波を乗りこなしていくことができる人」になることです。

これからの時代のキャリアは、何はともあれ変化を前提に考える必要があると思います。社会が変化するスピードがとても速いので、望むと望まざるにかかわらず、それにともなってキャリアを変化させる場面は必ずあるでしょう。

たとえば、私は今IT関係の仕事をまったくやっていません。エンジニア時代に培った考え方は現在も役に立っており、経験がゼロになるわけではありませんが、一つのスキルや職種にこだわって変化に抵抗していれば、今の自分はいなかっただろうと思います。

難しく考える必要はなく、社会の動きにアンテナを立て、心が動いた方向にフットワーク軽く飛び込んでいける人であろう、と心掛けておくだけで良いと思います。

私自身も変化し続けよう、ということだけを決めていますね。待遇や「何をするか」ということにあまりこだわりはなく、仕事は変わるものという前提で考えていますし、「予測不能な未来を楽しもうよ」ということをいろいろなところで話しています。

漠然と未来に不安を持っている人が多い世の中ですが、予測不能なことは可能性だと思っておいてほしいです。生きていれば大災害も起こるし、グローバル時代にはさまざまなカントリーリスクも発生します。どんなに優れた人でも、先々のことを完璧に予測することはできません。これからもいろいろなことが起こるでしょうが、変化に怯えることなく、変化はむしろチャンスだと感じられるマインドを育てていってほしいですね。

変化の激しい社会を生き抜くための心構え

変化に柔軟であるためには、自分の心に生まれた衝動を見逃さないことも大切です。

一般論として、企業は非合理なことや効率の悪いことを排除する考え方で動いています。「こんなことやったら良いと思うんです」と意見を出しても、「儲けが出なそうだから無理だな」で話が終わってしまうことも少なくなく、心の衝動を抑える癖が付いてしまうかもしれません。しかしそうしていると、自分という人間が世の中の変化に対応しきれなくなり、企業と一緒に共倒れしてしまうリスクが高まる気がします。

「効率は悪いし、儲からないかもしれない」「それでもなんだか、これに関与してみたい」。そんな気持ちが芽生えたときには、ぜひ大切にしてほしいです。

経営戦略において、「非合理の理」という理論があります。多くの企業が合理的な意思決定を優先しているのに対して、意図的に非合理な選択をすることで、競合との差別化を図ったり、イノベーションを起こしたりすることです。コスパやタイパとは対極にある考え方ですが、ときにあえてコスパやタイパが悪いことをやってみることで、新たなキャリアを切り開けることもあると思います

いまだに「人が住めるの?」なんて言われる原子力災害被災地域で、人生を賭けたいと思える大きなビジョンを見つけ、前向きにキャリアを歩んでいる私からのメッセージです。

和田さんが贈るキャリア指針

取材・執筆:外山ゆひら

この記事をシェアする